はじめに
化学発癌の歴史には、量子化学との接点がいくつかある。
その過去を振り返りながら、未来への期待と展望をまとめてみたい
化学発癌と量子化学
ペンゼン環をいくつも組み合わせて出来る多環芳香族炭化水素は、環の
数によって発癌性があったりなかったりする(図1)。
![]()
図1 発癌性(左)及び非発癌性(右)芳香族炭化水素
フランスのプルマン夫妻は、1
955年に量子化学の立場からど
のような規則性が発癌に結びつく
かを分析し、いわゆるK領域理論
を打ちたてた。すなわち、多環芳
香族炭化水素が発癌性を持つため
には、細胞受容体と反応するK領
域とともに、L領域との反応が抑
えられるような形のものでなけれ
ばならない、というものである。
K領域理論は、当時全く手が
かりの得られなかった化学発癌の
メカニズムにくさびを打ち込むも
のと喧伝されたが、K領域の指票
となる数字の範囲内にもいくつか
の例外が認められる。
芳香族炭化水素の発癌メカニズムに関
しては、1970年代に飛躍的な進歩があ
り、K領域と対蹠的な位置にあるBay領
域がDNAとの結合に重要であるとの結論
が得られた。
ペンゾピレンでいえば、7、8位置に最
初の工ボキシドがチトクロームp−45
0によって起こり、これがヒドラーゼでジ
オ−ルに加水分解され、更にBay領域の
9、10位置に第二のエポキシド化が起こ
る(図2)。
![]()
図2 ベンズピレン代謝活性化の諸相
K領域の4、5位置もエポキシドを生じ、最初はDNAとク旅篭板肺もこちらの方が強いと
信じられた。しかし、生体内では、4、5エポキシドは、加水分解酵素でジオールに不活化さ
れやすく、DNA結合反応も最終的には小さいことが分かった。
芳香族炭化水素の発癌性は、 Bay領域の代謝活性化の理論でかなりよく説明出来るが、こ
れにも幾つかの例外があり、発癌のメカニズムは、到底、一つだけのルートで説明しきれるも
のではない。ペンゾビレンのDNA結合体には、ジオ−ルエボキシド由来のもの以外にも、9
−ヒドロキシー4、5−オキシド由来のものもあり、更に6位置のオキシラジカルから生ずる
DNA結合体も存在する(図2)。
6−オキシラジカルは、K領域理論のあと、フロンテイア電子理論を用いて、その活性部位
が予言され、ミクロソーム代謝体として同定されたものである。6−オキシラジカルからキノ
ンを生ずる過程で活性酸素を生じ、DNA塩基修飾(チミングリコール)やDNA鎖切断を行
うことが報告されている。
ラジカル代謝体の生成は、他の芳香族炭化水素や芳香族アミンからも認められており、ラジ
カル生成やそれに伴う活性酸素生成は、発癌性とよく対応している。最近、化学発癌における
活性酸素の重要性は、腫瘍プロモーターの研究から広く一般に認識されるところとなったが、
これはDNA結合の認められない発癌物質の作用機序としてとしとくに有力視されている。
研究の澄史から見えてくるもの
化学発癌のこのような歴史を振り返ってみる時、われわれはどのような教訓を得ることがで
きるだろうか。
化学と生化学の間にギャップを生じた第一のステップは、代謝酵素の存在であろう。活性化
不活性化にあずかる代謝酵素の存在や密度が、最終的に生き残る活性体の運命を左右するとす
れば、最初からそうしたものをすべて考慮すること自体が至難のわざといわなければならない。
量子化学がマク口な代謝マップを予見することは不可能ではないが、細かいところは生物固有
のファクターで左右されるので、例外が入ることは避けられないことなのだ。
芳香族炭化水素の代謝に重要な役割を果たすチトクロームp一450は、元来、ステロイド
代謝にあずかる酵素であって、外来物質の代謝はどちらかといえば、副次的な位置にあると考
えられる。発癌性を持つ炭化水素の数や形に何がしかステロイド骨格を連想するものがあるの
は、そうした酵素タンパクのポケット部分の特性を反映しているものであろう。
発癌性芳香族炭化水素とステロイドホルモンの構造的類似に着目した人には、ハギンズがい
る。彼は、ラットに乳癌をつくる炭化水素のメチルコランスレンとジメチルベンゾアントラセ
ンが、ステロイドホルモンとくに、副腎皮質ホルモンと構造的に類似していると指摘している。
炭化水素を代謝するチトクロームp一450分子は、ステロイド代謝のチトクロームp一4
50とかなり古い時代に分岐した別種の酵素分子だが同じような誘導物質やインヒビターの
影響を受ける。また、炭化水素の酵素誘導にも関与する結合タンパクは、ステロイドレセプタ
ーのタンパクとも類似の性質を示すことが、最近、明らかになっている。
ハギンスは、芳香族炭化水素の発癌性も、ホルモン発癌と類似の機構で説明できるのではな
いかと考えていたらいが、十分、その推論を証拠だてるところまは行かなかった。しかし、
すこしづつではあるが、現在両者を埋めるデ一タが蓄積しつつある。
女性ホルモン作用のあるジエチルスチルベストロールは、芳香族炭化水素とステロイドとの
中間的構造を持つが、レセプタータンバクとの結合反応の過程で、ステロイド骨格と対応する
構造となることが証明されている。同じようなステロイドレセプタに対する結合反応におい
て、芳香族炭化水素もステロイドホルモンと拮抗現象を示すことが明らかになっており、これ
は、両者の構造的類以を示唆するデータと考えられる(図3)。
![]()
私たちは、ラットに胃癌を特異的につくるMNNGが、副腎皮質ホルモン作用に影響するこ とを見い出したが、このような分子模型の上ではステロイド骨格を想像することの出来ないよ うなものが レセブターとの結合反応でステロイド類似の形をとること分かった。
ステロイドホルモンのラジ力ル活性
発癌物質とステロイドホルモンの、こうした構造的相関から出発して,私は、ステロイドホ
ルモンも他の発癌物質と同じようにフリーラジカルとなり、活性酸素を生成する能力を持つの
ではないかと考えた。芳香族炭化水素や芳香族アミンのラジカル代謝体は、アルカリDMSO
中で活性が高まることから、ステロイドホルモンを同じ系で調べてみたところ、すべてではな
いが、大部分のステロイドホルモンが特有の微細構造を示すフリーラジカルを生ずることがわ
かった(図4)。
ミクロソーム系、ペルオキシダーゼ系で代謝したものについて調べてみると、エストロゲン
に限って、特異なラジカルを検出した。エストロゲン/ペルオキシダーゼ系では、NADH
の参加に伴って、過酸化水素が生成することが確かめられた。男性ホルモンでは、ラジカルの
酵素的生成こそ検出出来なかったが、酸化還元の酵素系で間接的にスーバーオキシドや過酸化
水素の生成していることが推測された。副腎皮質ホルモンでは、コーチゾン、ハイドロコーチ
ゾンを等量混じた状態で、アルカリDMSOでみたのとよく似たラジカルのESRスペクトル
を観測出来ることから、生体内のレドックスの場でも同じようなラジカル中間体が生成してい
ることが考えられる(図4)。
![]()
このようなin vitroのステロイドの酸化還元能を裏付けるものとして、in vi
troでのビタミンCの大量投与により、副腎皮質ホルモンの血中への放出や副腎での合成、肝
臓での代謝が大きく変動することが確かめられた。またラットでは、卵胞周期に合わせてヒド
ロキシルラジカルやSODの変動が報告されており、モルモットでのエストロゲンによる腎腫
瘍発生は、ビタミンC投与で抑制されるという事実がある。
最近、細胞内の情報伝達の歯車
に、酸化還元のステップが深くか
かわっていることが確からしくな
ってきた。がん遺伝子、がん抑制
遺伝子タンパクやその他の転写因
子が、レドックスによって活性を
制御されており、酸素ラジカルも
このようなレドックスの一員とし
て活躍している。酸素ストレスは、
ポリADPリボシル化やリン酸化
を通じて、クロマチンレレベルの構
造変化にも及ぶが、ストレスが持
続的になれば、DNA塩基修飾や
DNA鎖切断によって、不可逆的
変化につながる可能性がある。
がん化のメカニズムは、可逆的変化から不可逆的変化への一例である。
発癌物質のラジカルの構造を、ステロイド骨格との相似性で整理すると、ラジカルの位置そ
のものも似たような場所に落ち着く(図5)。これは、単なる偶然なのであろうか。
![]()
図5 発癌物質のラジカルとステロイド骨格
おわりに
ステロイドの化学は、フィ一ザ一以来膨大な蓄積があるにもかかわらず、量子化学はこの
重要な生体分子に殆ど手をつけていない。これは、環が飽和になっているため、芳香族炭化水
素に比べ扱う原始の数が多くなり、コンピューターの容量をはるかに越える計算になることに
よるという。将来の量子化学が、この分野で大きな貢献をすることを期侍したい。
参考文献
1)永田親義:がん発生の機構、サイエンス社、1982
2)児玉昌彦ほか、フリーラジカルの臨床、9:25‐32,1995