書く人と読む人のための化合物名−情報検索に備えて−

日本化学会化合物命名法校閲委員  畑  一 夫


化学の論文や報告書などの文書を作って,その内容を正しく伝えるためには,化合物名や化学用語が標準化された正しいものでなければならないし,またそれらの文書を読んで情報を理解するには書かれている化合物名や化学用語が正しいものである事が前提となる。筆者は長年これらの標準化の仕事に関与するとともに,日本化学会への投稿論文を査読し用語の正誤訂正に携わってきた経験から,論文の執筆者はどんな所に気をつければよいかを,思いつくままに列記してみよう。

 化合物の基準名として 国際的に通用するのは IUPAC名 および Chemical Abstracts Index Namesの両者がある。歴史的には研究者によって勝手につけられた有機化合物の名前をなるべく化学構造がわかるような国際的な名称に統一しようという意向で 1892年に提案された Geneva命名法が原典で,その後国際的な IUPAC名として広く普及し,現在でも論文などを書くのに最も広く使われているのはご承知のとおり。しかし,古くから知られた化合物に対しては 慣用名のほか ethyl alcohol,ethanolなど複数個の名称を認めているので,一つの化合物に関する情報検索の目的で使うのには不適当である。Chemical Abstractsでは IUPAC名を根源として独自の命名指針を定め,すべての化合物に対して化学構造と化合物名とが1:1になるようなシステムを確立し,1972年以降 現在に至るまでこのシステムを厳守している。

1. IUPAC 命名法− 論文を書く人のための命名法 −

 ◆有機化学命名法は 1947年初版以来何回かの小改訂が加えられて現在の 1979 Editionに至ったもので,全世界の化学者に普及していて命名規則自体に問題点はない。しかし執筆者が文書を作成するにあたって,規則書自体を見て化合物名を書くということはまずないので,書かれた文書に間違った名前が出てくるのは毎度のことである。
 日本化学会では IUPAC命名法の要点をまとめた解説書『化合物命名法』を刊行し,毎年かなりの部数が売れているが,初心学生の教育用が多いようで,実際の論文執筆者はこんなものは見ないで自分なりに覚えた化合物名を疑念もなく書いているのが実情と思われる。投稿論文によく見掛ける誤りの幾つかを挙げてみよう。
 ◇置換命名法と基官能命名法との混同
 アルコールの名称: 置換名(炭化水素名 + -ol),基官能名(基名 + alcohol)を混同する。C3H7OH は 2-propanol, isopropyl alcoholが正しく, isopropanolは誤名(isopropane という炭化水素は存在しない)。命名規則を知らないで,類例からの見様見真似で  yl alcohol は何でも ol としてしまう。
 カルボン酸,スルホン酸から導かれる酸基の名称:基官能名では benzenesulfonyl chloride のようになるが,同じ基が化合物内の置換基となるときは phenylsulfonylと命名される。
 単純な化合物名の誤りは,このように命名法規則によらないで自己流に書くという原因によるものと言っても過言ではない。
 ◇縮合環の名称が正しく書けない執筆者が多い。ちょっと複雑な縮合環の命名は規則を見ても炭素環と複素環とが別々に書いてあって,理解困難である。多くの執筆者は類似例から見様見真似で名称を作ったり,あるいは他の文献に書いてある名前(意外に間違いが多い)をそのまま失敬したと思われる名称が多い。日本化学会の『化合物命名法』には,炭素環と複素環に共用できるようにアレンジして執筆者向けにかなり丁寧に解説してあるので活用していただきたい。
 ◇環状ケトンの名称が正しく書けない執筆者が多い。指示水素 2H と付加水素 (2H) の表示を意識して,1(2H)-naphthalenone,2H-cyclohepta[b]furan-2-one のような名称の構築には 気をつけていただきたい。これも上記『化合物命名法』に初心者向けの解説がある。
 以上の2項は,論文執筆者に望ましい心掛けであるが,これは出版物から情報を得ようとする読者にとっても必要なことである。出版物に正しい化合物名が書いてあっても,それがどんな化学構造を表わすかという事が正確に読み取れなくては役にたたない。読者も命名法を心得ておく必要がある。
◇IUPAC有機化学命名法は50年の歴史を経てすっかり定着したと思われていたが,最近出版された次の“Guide”によって思わぬ異変がもたらされた。
  A Guide to IUPAC Nomenclature of Organic Compounds
    Recommendations 1993 B 1993 by IUPAC (Blackwell)
 この“Guide”には従来の“Nomenclature”1979 Edition の使用上の解説とともに幾つかの補足修正があるが,最大の異変は 接尾語で表記される -ol, -one, -carboxylic acid など,および不飽和語尾 -ene,-yne の位置番号はこれらの接尾語の直前に置くと指定されたことである。
  例: but-2-ene  pentane-2,4-dione naphthalene-2-sulfonic acid
 従来の“Nomenclature”1979 Edition までの序文には「化合物名は異なる言語に適応できるもの」を旨とすると書いてあって,位置番号をどこに置くかはどこにも書いてなかった。例えば,1940年代英国では but-2-ene,米国では 2-butene,ドイツでは Buten-(2) と書くのが普通だったが,“IUPACNomenclature”では各国の事情によりどちらでもよいことにして,規則書に出る化合物名の例としては Chemical Abstracts 方式で位置番号は母体化合物名の前に書いてある。
 “Guide 1993”の前書きには‘unique’name のために IUPAC English style によると書いてあるが,そうなるとこれからは IUPAC名とCA名がことごとく異なることになり,迷惑な話である。
 日本でこれまで使われてきた化合物名は IUPAC 1979年規則 あるいはCA方式によるものがほぼ定着しているので,投稿論文を査読する立場では 今回の“IUPAC Guide”の処置に難渋している。命名法によほど関心のある人でも“Guide 1993”が出たことを知る人は極めて少ない。長い伝統のある化合物名をいまさら改めようとしてもまず不可能とあきらめるしかないだろう。
 英語の論文なら but-2-ene と書いてあっても戸惑う人はあまりないだろうが,日本語では「ブト-2-エン」ではまず理解できないだろう。「2-ブテン」という日本語名を捨てるわけにはいかない。
 ◆無機化学命名法は歴史が新しく,IUPACの初版が 1971年版,改訂されて現在は 1990年版が 使用されている。古くから知られていた無機化合物は比較的組成の簡単なもので,初期の慣用名がそのまま使われていたものが多い。近代的研究によって化学構造が解明されるに及び,有機化合物と同様に化学構造を明示する体系的命名法が必要となり,体系名を基本とする IUPAC命名法が確立された。
しかし体系名を使うような教育が極めて不十分なため,いまだに古い名前が横行している。年配の化学者,化学工業系の技術者などには未だに古い名前が浸透していて,容易には改められない。
 それでも,新しい IUPAC名が高校教科書に採用され,また日本化学会編集の論文誌その他の出版物で IUPAC名に改めるよう努力した結果,炭酸ガス,重炭酸ソーダ,塩化第二鉄などの名前は殆ど見掛けなくなり,二酸化炭素,炭酸水素ナトリウム,塩化鉄(V)などに改められた。
 IUPAC無機化学命名規則は 1990年版で古来の慣用名を捨てて体系名に改める方向で改訂されているので,HClO は hypochlorous acid でよいが,HBrO は hydrogen monooxobromate とするというような行き過ぎた勧告まであって,当分の間混乱は免れないだろう。
 IUPAC 1990年規則で非常に便利になったのは錯体の命名法である。金属錯体は無機化学でも有機化学でも広範な研究対象となり,その名称の標準化は情報検索の観点からも必要だったが,かなり複雑な構造の錯体でも 1990年規則によって 体系名として命名可能となった。体系名を書いたり読んだりするには η,κ,μ などの記号を理解する必要があるが,初心者にとって必要最小限のことは日本化学会編の『化合物命名法』に解説してあるので利用していただきたい。

2. Chemical Abstracts Index Names -情報検索のための命名法

 Chemical Abstracts では既知の化合物に関する情報を検索するのを目的として,化合物には 化学構造と名称とが1:1に対応するような命名システムが作られている。 ‘unique name’構成の方針としては IUPACの基本体系名を極端なまでに採用している。
 単純な化合物についても isobutane,tolueneは使わないで 2-methylpropane,methylbenzeneとする。t-butylは使わないで 1,1-dimethylethyl とする。 カルボン酸も 古来の名称としては formic acid,acetic acid,benzoic acidだけを残してその外はすべて体系名 propanoic acid,2-propenoic acidなどとする。アミンは methylamine,aniline でなく methanamine,benzenamine となる。
 ◆IUPAC名とCA名との使い分け: CAでは 一つの化合物は一つの名前に統一されているので,一つの化合物についての情報を引出すためのデータベースを構築するには絶対必要な命名法であるが,体系名はどうしても長い名前となるので,論文その他の文書を書く場合に実用的にはとても使えないので,比較的簡単な化合物に対しては IUPAC名や慣用名・通俗名を使うことが多い。
 IUPAC命名法の制定は歴史が古いが,新しいタイプの化合物が開発された場合,現行の命名規則では対応できないことが多い。例えば,硫黄,リン,ゲルマニウムなどを含む化合物の研究領域では命名が困難な場合が多い。リン化合物などの命名には CA方式を利用しないと適切な命名ができない。挿入辞(infix)を使う phosphonothioic acid,phosphinimidic acid 方式の命名法は IUPAC無機化学命名法には採用されたが,有機化学命名法には出ていない。
 IUPAC命名法では 体系名のほかにも別種の命名法や古来の慣用名が認められ,過去の文献や化学工業系の文献には様々の通俗名が出てくる。これらの化合物はCAではどういう名前で記載されているかを調べるには“Chemical Abstracts Index Guide”が便利で,日本化学会図書室などには備えられているが,どこででも簡単に見られるものではない。
 CAではVol.76(1972)で定めた命名システムを改変することなく,新しいタイプの化合物の命名にも規定通りに適用しているが,それでも続々新型化合物が出現すると 追随できない場合があり,結局は CAS Registry Numbers に頼らざるをえないことになるように見受けられる。

3. 日本語による化合物命名法

 日本語による化合物名には昔からの伝統名のほか,IUPAC命名法の翻訳書などが よく利用されていたが,『文部省学術用語集 化学編』増訂版の編集にあたって, 日本語で化合物名を書く場合の命名法の大綱を決めておく必要が議題になった。そこで 1967年 日本化学会に化合物命名法委員会が設置され,審議の結果定められたのが,現在の日本化学会編『化合物命名法』である。
 従来の文部省学術用語集に採用されていた既定用語,従来広く慣用されてきた日本語名は,なるべく変えないようにするが,原則としては仮名書きの通則をきめて,全体的に統一をはかるようにした。
命名法委員会では日本語による命名法の問題点を慎重に審議した結果「化合物名日本語表記の原則」をまとめ,その原案を日本中の主要研究者230人にアンケートとして送り,103人からの回答を整理検討し,原案にいくつかの修正を加えた結果,情報検索の要諦として当分の間変更しない見通しのもとに,1971年12月にこの原則を制定し,日本化学会編『化合物命名法』の巻頭に解説した。
 ◆「日本語表記の原則」で一番議論になったのは片仮名書きの方法であった。一般に外国語は原語の発音に近い「音訳」として片仮名で書かれることが多いが,この方法では同じ化合物でも発音が違うと異なった化合物名となり,原語の発音がわからなければ化合物名を正しく書くことができない。これでは一貫性のある規則的な命名法を作ることは不可能である。
 「日本語表記の原則」では,原語の発音とは関係なく,原語の綴字が機械的に仮名書きに移されるような「字訳」(transliteration)の方法をとることになった。これは ロシア語のキリル文字を機械的にラテン文字に移しかえるのと同様である。
 この「日本語表記の原則」で規定されているのは〈書くための化合物名であって,口頭で話すための化合物名ではない〉ということである。この点は原典になるIUPAC命名法でも,緒言で 〈この命名法は教科書,論文誌,報告書その他の文書に書くためのもので,会話や講義・講演など口頭で発表するためには必ずしも適当なものではない〉と記されている。
 字訳の基本となる「字訳規準表」を定めるにあたって,当時多くの有機化学者はドイツ語による教育を受けて来たので a → ア, er → エル など ドイツ語の発音に近い字訳が規準表に多く採用される結果になった。現代は英語が主流になったので,アセタート,ペルオキシドなどの字訳名に違和感をもつ化学者が増えたのは当然のことであろう。
 「化合物名字訳規準」には,慣例として定着しているものには例外を認めるという項目があって,ase → アーゼ,ate → アート などと 定めてある。「字訳規準表」を定めるためのアンケートではアート,エートが伯仲し 僅差で アートが優勢だったので,アートが採用されたが,あの時,字訳の例外項目で ate → エート としておけば,現代にも通用したのにと残念に思っている。
 peroxideも英語ではパーオキサイドと発音されるので er → アー としておけばよかったかもしれない。当時は,それでは terpeneはターペンとなり,ergosterolはアーゴステロールとなるという反論があって,機械的に er → エル に決まった。
 ◆IUPAC命名法による体系名では,接頭語基名を英語のアルファベット順に書く規定になっている。片仮名に字訳した基名を使って化合物名を構成するとき,接頭語基名を五十音順に並べたのでは英語名とはずいぶん違った名前になってしまう。そこで,日本語による命名法では,英語名をそのまま字訳してしまう。日本語名だけを見ると,接頭語基名がどういう順序に並べてあるのか見当がつかないが,やむをえない便法であろう。
 IUPACの有機化学命名部門でも,今年の Praha 会議でこの順序について,英語圏以外の委員からの提案が議題となり,コンピューターによる情報検索の立場から検討を始めようという話になったとのことである(IUPAC命名法委員会の日本代表池上四郎委員からの情報)。
 ◆日本化学会で「化合物名の日本語表記の原則」を定めたのは,各種化合物のデータベース化を念頭において,コンピューターによる情報処理のためには化合物名を統一して機械的に処理できる命名法を確立しておく必要があるとの見通しからであった。
 現在はまさにコンピューター情報の時代になったが,ひとつ見通しから外れた点は,国際的な化学情報検索は殆どすべて英語名によるという現実である。当時の委員会が苦労して日本語による化合物名を機械的処理で情報化しようとした結果は,多くの化学者にはあまり有効に利用されず,多くの情報は英語名に頼られているということである。
 日本化学会で制定した日本語による化合物命名法が忠実に守られているのは,皮肉にも官庁で新しく公布された化学物質に関する法令などである。
 事の起りは,1977年に労働省で労働安全衛生法に基づく化学物質の有害性調査を行うにあたり,化学物質の命名法等検討委員会が設けられ,筆者(畑一夫)と中原勝儼氏が委員に選ばれ,法令に使う化合物の日本語名をどうするかを審議した。その結果,IUPAC命名法による化合物名を原則とし,日本語名の片仮名書きは日本化学会制定の字訳方式を採用することに決まり,この方式に従って1980年に『労働安全衛生法 化学物質総覧』が発行された。
 この委員会で,日本化学会論文誌でも IUPAC規則どおり馬鹿正直に化合物名を書いてくる投稿者はいませんよとコメントしたが,これは法律だから厳重に守ってもらいますとの返事だった。まさかと思っていたが,現実にはそのとおり。その後労働省から出る法令はずっと IUPAC命名法による日本化学会方式が厳守されている。最近複雑な構造の化合物が問題になるので,若干のミスと思われる場合もあるが---- 
 厚生省も化合物命名については,労働省と同じ方針で化合物名を法令化している。例えば『日本薬局方』では,旧来の名称が定着していて改名すれば混乱を起こすようなものは別として,一般的には極力 IUPAC名を採用するようになった。
 ◆化学用語の標準化については『文部省学術用語集 化学編』があり,戦前の用語が現代の常用漢字に改められた。現代の用語は現代の化合物名とともに教科書を通して普及してきたが,まだまだ古い用語が使われている。
 一方漢字制限により無理に「改悪」された用語もある。現在ではワープロの普及で常用漢字表にない漢字もJIS漢字として容易に利用できるようになり,また新しい概念のもとに取入れられた用語は英語を原語とした片仮名語が多いので,やや年配の化学者には理解しかねる用語が増えてきた。情報検索のためには日本語による学術用語も見直す時期にきているように思われる。


畑 一夫 HATA,Kazuo

東京都立大学名誉教授,1967〜1991 日本化学会化合物命名委員会委員長